教育

もっと人生を主体的に生きよう!

我々は、自由である。

今日何するか、明日何するか、将来何するか、すべて自由に決定することができる。

(できないと思っているだけで、本当に全部自分で自由に決めれるはずである)

大学に行く・行かない

卒業後会社に入る・入らない

会社を辞めない・辞める

明日から世界一周旅行に行く・行かない

全部、誰にも強制されていないし、自由に決定できる環境にいる。

また、どんな決定をしても生きていくには、たいてい困らない。

それにもかかわらず、周りに身を任せ、受身で過ごしている人が多い気がする。

みんなが行くから大学に行く

みんなが入るからサークルに入る

みんなが行くから一流企業に行く

とりあえずみんなと同じがいい

何も、大学に行く、一流企業に行くことが悪いなんて一切行っているわけではない。

ただ、特に何も考えずに、なんとなくその選択肢が無難だからと選択していることが問題かなと。

そこに、目的があれば、多くを学び成長できると思うが、目的もなく、すごしても多くのことは得れない。

得れないばかりか、必ず惰性になり、どんどん楽しくなくなっていく。

だからこそ、もっと自分の人生に対して主体的になるべきだと思う。

主体的とは、『自分の人生は自分で決定し、自ら切り拓く。その代わり、自分ですべて責任も持つ。自分で目標を設定し、やりたいからやる。そのために、考え・考え・考える』という状況。

決定には、責任が伴う。責任を負いたくないからこそ、他人と違う道を歩むことを恐れるがゆえに、

受身になってしまっているのではないか。

セルフリーダーシップという言葉がある。

これは、自分自身に対してリーダーシップを発揮するという意味である。

多くの人が、組織の幹部や政治家等に対して、リーダーシップの欠如を感じていると思う。

これは、ビジョンがない・やりぬく断固たる決意がない・無責任・統率力がない等を感じるからではないか。

ただ、いざ自分に当てはめてみると、人生のビジョン目的はあるか・どんな困難があってもやりぬく覚悟があるのか・責任感を持って取り組んでいるか・自分をしっかりと統率できているのか?

この問いにしっかりと答えれる人は少ない。

つまり、自分自身にリーダーシップを発揮できていない人が、組織のリーダーシップを発揮できるわけがないと思ってしまう。

今様々なことに不満を抱いている人は多いと思う。しかし、それに批判を言っていても何も代わらない。

批判をするのではなく、その課題を克服するために、自分は何をするべきか、どうすれば解決するのかを考え、実行していく人が、主体的に生きている人なのではないか。

何か、日本の価値観として、すべてのことが他人事になっている。

批判はするが、解決策は考えず、行動にも起こさず、責任も負わない。誰かが何とかするでしょという価値観。

仲間に対して、上司に対して、部下に対して、会社に対して、政治に対して、すべてのことに不満を言うのではなく、その課題を解決するために行動に起こしていく。

つまり、他人事ではなく、自分事に変えていく。

主体的に・自分事にして、物事に取り組み、責任を持つ。

こういう流れが大切なのかなと思う!

一人ひとりの若者が、人生の目的を考え、もっともっと主体的に生きてほしい!

そうなれば、日本の未来は明るいはずである!

我流とオリジナリティーの違い!

我流とオリジナリティー(独創性)はずいぶん意味が違うと思う。

我流は,基本も無視し,自分のやり方を貫くこと。

オリジナリティー(独創性)は,基本をしっかりマスター上で,自分のやり方を付け足して,進化させていくこと。

我流では,なかなか1流まではいけない。

スポーツがイメージしやすいが,誰にも習わずに,我流で練習した場合には,

アマチュアレベルではいいかもしれないが,一流のプロレベルまではいけない。

やはり,まずは,基本をしっかりと習得し,そのうえで,自分のオリジナリティー(独創性)を築いていく。

そうでないと,その分野の本当の一流になれない。

スポーツは,スコア等により,自分のレベルが把握しやすいため,基本を大切にする人が多いと思う。

ゴルフや野球を誰にも習わずに行ってもなかなか上達しない。

しかし,仕事や学びでは,本当に我流で行っている人が多い気がする。

これは,自分のレベルが数値的に把握しづらいことに起因しているのではないか。

その結果,多くの人がその分野の2流・3流に甘んじている。

だからこそ,仕事や学びでも基本を大切にしてほしい。

この時に,大切だと思っていることが,本質(趣旨)の見極めである。

ひとつひとつの作業の目的・意味といった本質をしっかりと理解したうえで行うのと,

本質を考えず,受け身で行っているのでは,成果に格段の差がでてしまう。

たとえば,勉強に当てはめると

なぜ,理解することが大切なのか,問題を演習する意味は何か,テストを受ける意味は何か。

仕事なら,なぜ上司は,このようにアドバイスするのか,なぜこういうマニュアルが,なぜ今,この仕事を頼まれているのか,この仕事は,会社全体から見て,どのような意味があるのか,

そういった,すべてのことに対して,『なぜ』と問いかけ,その本質を考えることが大切。

我流が一番よくないが,基本を習っても,本質を考えず,ただ言われたことをこなすこともよくない。

基本を習った際に,『なぜ』この作業が必要なのか,ひとつ一つ本質を考えることがすべてにおいて,

非常に大切なプロセスであり,このプロセスを省略してはいけない。

逆に,ここは,しっかり考える時間をたっぷりとること!

理想形は,『自分のすべての思考・行動に対して,その理由を説明できる状態』ではないかなと。

そういうことが習慣化されている人は,何事にも本質を見極め,論理的かつ全体像から考えることができる。

そういう人は,自ずとすべての分野で結果が伴う可能性が飛躍的に高まる。

言うのは簡単で,実行することが難しいのだが,日々,すべての事象の本質を考える習慣を意識したい。

『日々,考え・考え・考え抜く』,これは本当に骨の折れる作業であるが,この習慣を心に留めておきたい。

人はなぜ学び成長するのか!

人は,幸せに楽しく生きたい。充実した人生を送りたいと思っている。

では,自分が幸せに楽しく生きたいとは,どういうことなのか?

私は,周りの人を幸せに楽しくすることだと思う。

人は,自己の満足のために生きているが,その満足は,

『他の人に何を提供でき,どう役に立ち,どう感謝されるのか』に依存していると思っている。

だからこそ,学び,成長し,自分ができることを広げていく必要がある。

自分が影響を与えることができる社会も,家族・友人・会社・地域社会・国・世界とその範囲も無限に広がっていく。

一人でも多くの人に,楽しく生きてもらいたいということを実現するために,自分自身が成長することが必要である。

東日本大震災等が起こると,人間は自分の無力さに怒りが生じる。

そこまでのことでなくても,日々,自分にもっと実力があればと思うことも多々ある。

もっと社会にいい影響を与えたい。周りの人の役に立ちたい。

この気持ちが強ければ強いほど,学びたいこと,成長したい気持ちが湧き出てくる。

それが,もっとこうなりたいという向上心の源泉であると思う。

そのうえで,何か最近は,楽しさという言葉が誤解されている気がする。

日々の快楽や余暇を楽しさと思い,がんばることを否定する価値観が広がっていることに懸念を持っている。

本当の楽しさとは,目標を設定し,それに向かって努力し,困難にぶつかり,それを乗り越えたときに,得ることができる充実感や達成感からもたらされるのではないか。

本当の感動を伴うようなことが真の楽しさ・幸せだと思う。

学生時代の部活動等で,仲間と心の底から感動する,うまくいかずに悔し涙を流した経験がある。

大人になると,そんな状況がいかに素晴らしいかを忘れてしまう。

だからこそ,『自分は何をやりたいか,社会に対して何を提供したいのか』をしっかりと見つめ直すことが大切。

社会人になって,仕事でもプライベートでもそんな,喜怒哀楽を感じ,鳥肌が立つような状況を多く味わうために,人は,学び成長している。

学び・成長は,強制されて,義務でやるものではない。

自分から学び・成長したいと熱望し,やりたいことがどんどん湧き出てきて,自ら勝手に行動する。

こういう気持ちの人が増えれば増えるほど,人生はより豊かに,そして幸せになるのではないかなと。

より良い社会のために,もっと成長したい!

一日一日を大切に。

本当の失敗は何もしないこと!

成功の反対の意味で失敗がある。

確かに,悪い失敗は成功の反対に位置する。

悪い失敗とは,本気でやらなかったことに起因する失敗が該当する。

しかし,いい失敗は,成功の反対ではなく,成功するための必要な過程である。

どんなことでも,新しいことにチャレンジし,果敢に挑むことによって,失敗が伴ってしまう。

そして,失敗から多くのことを学び,修正し,成功に近づいていく。

まったく失敗しないで,成功できることなんて,しょせん大した成功ではないのでないか。

世の中の成功者といわれる人が,もっとも多くの失敗を経験していると思う。

なぜなら,どんどん挑戦しているから。

多少の失敗なんて,まったく恐れてないから。

最近,失敗を恐れるため,挑戦することを回避する人が多い気がする。

無難や普通を望んでしまっている。

しかし,それは,失敗もしないが,成長もしなければ,大きなものを得ることができないことを意味している。

だからこそ,成功の反対の意味は,正しくは,『何もしないこと』ではないかと思う。

人生,取り返しのつかない失敗は避けなければいけない。

ただ,ほとんどの挑戦は取り返しのつかないほどの失敗を伴うものではないのではないか。

変にスマートに生きようとして,失敗しない無難な道を歩まないでほしい。

若者には,人生一回きり。やりたいことに思いっきりチャレンジしようと伝えたい!

それが,後悔しない人生なのではないかと思う!!

他人の経験から学ぶ

人は,成功体験・失敗体験等の体感した経験から学び,成長する。

だからこそ,多くのことを経験することが大切で,経験値ともいうのだと思う。

しかし,大きく以下のの3つに分類できると思う。

① 自らの経験からも学ばない人

② 自らの経験から学ぶ人

③ 他人の経験からも学ぶ人

 

① 自らの経験からも学ばない人

これは,意識の低い人の一般的なパターン。

自分が失敗したにもかかわらず成長しない人や失敗にすら気づいていない人。その原因は,目的意識の欠如が原因だと思う。目的意識が弱いからこそ,失敗しても学び成長がなく,同じミスを繰り返す,また,目的意識が弱いからこそ,失敗にすら気が付いていない。

② 自らの経験から学ぶ人

これは,意識の高い人の一般的なパターン。目的意識が高いので,自らが失敗したことからは,学び成長する。また,自らが成功したことからも,学び成長する。

この状況の時に,多くの人が成長したと実感するため,多くのことを経験することが大切といわれるのかなと。

③ 他人の経験からも学ぶ人

これが,究極の理想形だと思う。自らの経験からしか学べないと,失敗しなければ学べないし,一人の人間が人生を通じて経験できることにも限界がある。そのため,おのずと学び及び成長にも限界が生じると思う。

だからこそ,他人の成功体験や失敗体験からも学ぶことが大切。これは,自分の目指す目標をすでに達成している人生の先輩に色々指導していただくことや,本などの外部からのインプットをどんどん行い,それを自分の状況に置き換え,自分の血肉としていく作業の繰り返しからしか,得ることができない。

特に,今の若い人には,読書の大切さを伝えたい。私は,読書量が学びや成長速度と比例していると思っている。本は,ピンきりであれど,その道を極めた方が,次世代の若者に,自分の経験を伝えたいという想いを込めて書かれているものも多い。だからこそ,これこそ,最高の人生の教科書であると思っている。

若い人には,他人の経験からも学べるようになることを強くお勧めしたい。

では,どうすれば,他人の経験から学ぶことができるようになるのか?

その問いに対する私の答えは,意識の差である。

同じ経験をしても,何も得ない人もいれば,本当に多くを得る人がいる。これは,目的意識(アンテナの張り方)に依存している。人間は,自分の興味のない情報は,一切インプットされない生き物である。また,自分に都合のいいようにインプットする生き物でもある。

だからこそ,目的意識を高く持っていないと,同じ経験から多くのものを学ぶことができないし,他人の経験を聞いても自分に吸収されない。

このことを別の言い方をすれば,『目標を高く持ち,何事にも全力で取り組みなさい』という表現になるのかなと。目標を高く持ち,かつ,全力で取り組んでいれば,すべての経験から多くを学ぶことができる。

他人の経験からも学べれば,こんなに効率的なことはない!

教育とは何か

教育とはなんだろうか。この定義について,考えてみたい。



私は,一言でいうと,『人を育てること』だと思っている。



これは何も学校で先生が行うものだけではない。家族・友人・職場すべての関わる人に対して,成長するための何かを提供することだと思う。



そのために提供するものは,気づき,専門知識・考え方・方法論・人間力等本当に多岐にわたっている。



すべての場面が教育現場であり,一人ひとりが学ぶ意識・教える意識を持ち,かつ一人ひとりがお互いを成長させようという意識を持てば,いつでもどこでも,最高の教育現場になるのではないか。



また,その人その人のレベルに合わせ,内容も変わると思っている。

最終目標が100の時に,まず最終目標が100であることを伝えることは大切だと思う。

しかし,今10の人に対して伝えることは11になるために必要なことであり,20の人に対して伝えることは21になるために必要なことである。



ここに教育の落とし穴があると思っている。

教える側は,すべての人に対して,この100段の階段を一段ずつ確実に上るために,何が必要かを伝えていかなければいけない。



ここで,相手のレベルを考えずに,毎回画一的に同じアドバイスを行ってしまっているのではないか。



また,学ぶ側も,多くの人がいきなり何段も越えようとして,うまくいかず,悩んでいたりするのではないかと思う。



人は一段ずつしか登れない。しかし,着実に一段ずつ登り続けた人がとてつもないところまで成長するのである。



だからこそ,一段ずつ登っていく大切さ,その積み重ねで成長していくことを教える側は伝えなければいけない。また,その人が次の一段を上るために最善のことを伝えなくてはいけない。



この見極めこそが,教育の本質な気がしている。

すべての人が,ある時は教える側,ある時は教わる側になる。



だからこそ,この教育の本質を見極める力を養うことが,すべての人にとって,大切なことだと思う。