物事を考える・議論する際に、視点を上げて考えることが本当に大事だと思っています。
今話題の、『入学式を担任が欠席した』というニュースで、先日ブログを書きましたが、当事者に対して、善・悪で意見するのは、自分はどうしても視点が低いと感じてしまいます。
視点を上げると
そもそも、この論点は、ワークライフバランスの問題であり、
さらに、ワークライフバランスの問題は、
個人の時間
家族の時間
会社の時間
社会の時間
に対して、どう考え、どう生きるかという生き方の問題です。
その際に、会社の時間VS家族の時間だけに焦点を絞って、
家族を優先すべきVS教育者としての責務を優先すべき
会社の時間VS個人の時間だけに焦点を絞って、
多様性を受け入れるべきVS教育者としての責務を優先すべき
などの議論は、ほとんど解決策を見出さず、個人・個人の価値観の主張合戦で終始すると思っています。
そもそも、個人の時間・家族の時間・会社の時間・社会の時間をどのようにバランスをとって生きるのか、この問いに対して考え、議論しないと、一生同じ議論が繰り返されているだけだと思います。
そもそも、人間は個人がどう幸せに生きるかを追及している生き物だと理解しています。
でも、そのためにも、家族や仲間を大切にし、幸せを共有する。
会社がよりよくなってこそ、個人や家族や仲間の幸せもあるので、会社がよりよくなることも個人の幸せにつながる。
また、社会がよりよくなることで、個人や家族や仲間の幸せや、さらには、会社がより良いものになるので、個人の幸せにつながる。
その中で、どのように社会(公)や地域・会社をよくすることと、個人や家族・仲間が幸せになるかということを考えないといけないと思っています。
今の日本は、個人・家族といった、よりミクロの単位に意識が行きがちで、会社や社会をよりよくすることが個人や家族にとって長期的にもプラスになるという意識が欠落している気がします。
従来の日本が和の精神に基づき、2,000年以上も独立国家を形成している唯一の国であった一番の理由が、社会や地域といった公をよくするための意識が高かったからだと思っています。
戦前までは、天皇という存在に基づき、社会に秩序があった。
戦後も、欧米のような豊かな生活をしたいという目標の元、会社という存在に基づき、秩序があったと理解しています。
現在は、社会に対しても、会社に対しても、帰属意識がなくなっているので、どうしても個人や家族・仲間といったミクロの単位での帰属意識しか持てなくなっています。中には、家族や仲間に対しても帰属意識すらもてない、自分自身も大切にできないというような状況まで生じ始めていると理解しています。
これからの時代に会社に帰属意識を持つのは違うのかもしれません。
愛国心というとネガティブなイメージを持たれる方も多いと思います。でも、より大きな単位の帰属意識を持たない限り、個々人が勝手に生きていてはどんどん社会の秩序は崩壊してしまいます。
なので、言葉を換え、地域、社会や地球全体に対して、もっと帰属意識を持つことが大事なのではないでしょうか。
もちろん、そんなことを気にしないで、個人が自由気ままに生きるという選択肢もあります。
日本という豊かで教育水準も、治安も、社会保障も整った国で育ち、社会で自立し稼ぐ力をはぐくんででいただいたのに、あたかも自分の努力だけで勝ち取ったと錯覚する。そして、恩恵を受けるだけ受けた後に、日本がちょっと都合が悪くなれば、海外にわたり、今経済成長している国や税制の有利な国で稼ぐだけ稼ぐ。そして、また老後になれば、社会保障の安定している国へ移り住む。
会社でも、自社や業界が調子のいい時だけはそこにいて、ちょっと調子が悪くなれば、不平・不満だけ言って、その時に調子のいい会社や業界に移動する。
こういう、渡り鳥的な生き方の方が、個人的には楽だと思います。しかし、こういった新手のフリーライダーが多くなれば、社会は確実に崩壊に向かいます。
また、自分がお金を稼ぐ、短期的においしいものを食べ、遊び、楽しく生きることを優先しているだけのエリートが増加している現在では、長期的に望ましい方向へアクションを起こす人が少ないので、社会のすべての課題が先送りされやすくなっています。
これは、教育だけでなく、医療・経済など、すべての業界で同じ状況が生じていると思います。
なので、長い目で見て、教育をどうするのか、社会保障をどうするのか、経済をどうするのか、国防をどうするのか、環境問題をどうするのか、個人の多様性と社会の秩序のバランスをどうするのか、自分の業界をどのような形にしていくのか、今の我々が幸せに生きるとことと、子供や孫といった将来世代が幸せに生きることのバランスをどうするのか。こういう論点について、視点を上げて考えていかないといけないと思います。
そのため、視点を上げるという意味は、