今この『考える力』が求められていると思う。
考える力には、2種類あると思う。
一つは、答えのあるものを論理的に考え、しっかり習得する力
もう一つは、答えのないものを論理的に考え、答えを導き出す力
日本の教育は前者に重きがおかれていると感じている。
受験勉強や資格の勉強などのいわゆる偏差値教育に基づくものは、
答えのあるものを論理的に考え、しっかり習得する力を養わせており、
その力が反映される、テストの点数という結果でその人の能力を判断している。
確かに、答えのあるものについて、論理的に考える力は大切である。
指示されたことに対して、その趣旨を論理的に捉え、確実に成果をあげる力。
今の日本の繁栄は、学校教育で、個性を排除し、この指示されたことを確実に遂行する人間を大量生産するには適していたのだと感じている。
その力と、ルールを守る、和の心を大切にするという日本人本来の特性がかみ合い、
高度成長を国民一丸となって支えていたのだと思う。
考える力の土台となる部分だと。
しかし、もう一つの答えのないものを論理的に考え、答えを導き出す力は軽視されてきたと思う。
もちろん、従来の偏差値教育においても、この力の必要性を感じ、
独自で習得し、新たな道を切り拓いてきた先人も多くいる。
ただ、多くの人は、そのような人についていくことで問題が生じていなかった。
彼らの指示を受け、確実に指示を遂行していくことが求められていた。
だからこそ、答えのない問題に対する考える力が軽視され続けてきたのではないかと思う。
ただ、そろそろ教育も転換期を迎えている。
これからの時代には、指示されたことを正確に遂行する力だけでは、厳しい時代が来ている。
答えのない、前例のないものに対し、本質を考え、正しいと信じる道を切り拓ける能力が求められている。
まったく新しいプロジェクトの責任者としてすべてを自分で考えるような力。
エネルギー問題のように唯一絶対の答えのない問題に対して、論理的に正しい道を考えるような力。
このように答えのない問題に対して、正しい答えを導き出す力は、
物事の本質を日々考え、様々な場面について望ましい解決策を考えることで養われる。
つまり、現状に不満を言う、問題点を指摘するだけでなく、
どのような状況が望ましいのか、どうすれば解決するのかという段階まで、どれだけ考えたのか。
考えた量が経験値となり、どんどん考える質を高めていく。
その結果として、答えのない問題に対して、自ら答えを導き出せる確率が高まっていくのだと思う。
この答えのない問題に対する考える力は、すぐに身につくものではないと考えている。
日々考え、考え、考え続けた結果、そのすべての集積として、徐々に養われるのだと思う。
今後の教育は、この力を養うことに視点をおくべきだと考えている。
答えを教えるのではなく、
考える重要性を伝える。考える視点を教える。
課題解決能力・目標達成能力といわれる力を養うために。
こういう方向に、学校教育も、職場での教育も、家庭での教育も徐々にシフトしていくことが求められているのではないか。
そのためには、我々一人ひとりが、考えることの重要性を認識し、日々様々なことに対して、望ましい結果はどうすればいいのかと考えることなのだと思う。
考えることの重要性は認識しているものの、実際どれだけ考えているのかというギャップを埋めることなのだと思う。
そんなことを思うたびに、日々、もっと様々なことに対して、
考え、答えを導きだすことを繰り返し、考える力を養わなければと思ったりする。
ゴールのない、この考えるという道をどこまで進んでいけるのかは、人生の楽しみの一つではないかと。
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